過ちを犯すのが人間
ひとつ前の記事で、海外の思い出を書き起こしているときに思い出した、
ロシアの女性が言っていた言葉。
「マチガッテモー、ジブンセメチャダーメー。アヤマチオカシテモー、カミサマガユルシテクレル。アヤマチヲオカスノガ、ニンゲンデース。」
この話を聞いて、日常生活の中に神が存在してくれるというのは、
自分を救ってくれるんだなぁと感じた。
どういうことかというと、
「人間は過ちをおかすもの」「神はすべてを許す」これによって、
自分で自分を責めて自己嫌悪に陥る前に、神が救ってくれるので、
人は無闇に自分で自分を責めることを避けられる。ということ。
無宗教だと、自分が罪の意識にとらわれると、自分がそのことを許さない限り、
ずっとそのことで自分を責めてしまう状態となる。
だけれど、もともと、「神は全知全能」であり「神はすべてを許してくれる。」
「過ちを犯すのが人間」という前提のもので生きているのであれば、
自分はこんな過ちを犯したと神の前で懺悔することにより、
全知全能の神より許しを得られるという形になる。
以下の書き方は、ちょっと誇張表現しすぎているかもしれないが、
「自分はこんな過ちを犯したが、ちゃんと自分の過ちを認識し、
全知全能の神によって許されているのだから、私は誰にも非難されるいわれはない」
と、自身を持って生きることができる。
話をしたロシアの人も同じようなことを言っていた。
最近では、日本でも、神は自分の中にいる。。といった動きが見られる。
確かにその通りだと思う。
神が自分を許すとはいえ、自分がそう認識しない限り、許されないから。
自分にとっては、自分の認識が全てであって、
たとえどこかに見えない神様がいたとして、「許す」と言っていたとしても、
それを自分が認識しない限り、自分は自分を責め続けるから。
そして、いくら聖堂で祈っても、通常神の声が耳から聞こえてくることはない。
(中には聞こえる人もいるかもしれないけど。笑)
結局は、自分が神に許されたと、自分が認めるのが全て。
自分を裁いているのも自分。
自分を制限しているのも自分。
自分を許すのも自分。
自分を自由にするのも自分。
自分は自分の人生において、最高権限を持っている。
裁くも自由。
許すも自由。
なにもかもが自分次第。
逆に他人の人生は他人のもの。
他人が最高権限を持っている。
だからこそ、
他人を制限することはできないし、
他人をコントロールすることもできないし、
他人を裁くこともできない。
自分は自分の人生にのみ全責任を持ち、
他人は他人の人生にのみ全責任を持つ。
だからこそ、人はそれぞれに尊重されるべきであって、
不必要に自分を卑下する必要はない。
自分のやりたいと思うことには、世界でたった一つの価値がある。
自分の感情には、世界でたった一つの価値がある。
自分がどう生きようと、世界でたった一つの価値がある。
神という存在も、自分が認識しない限り、存在できない。
自分の人生では、自分が全て。
私の生きる世界は、自分の感覚で捕らえただけのもの。
自分の認識を通さない限り、私は世界を認識できない。
自分の認識する全ては、自分の認識した部分でしかなく。
認識していない部分は、自分にとって存在していない。
自分が認めたもののみしか、自分の世界には存在できない。
なんか考えてたら
すっごい哲学的なところまで来ちゃったヨ!!!
ようは、あんま深刻にならなくて良いということ。
何やっても神に許されてる世界を生きてる人もいるんだから。
わざわざ自分で自分を延々責め続ける必要はないということ。
自分で自分の可能性を閉ざす必要はないということ。
同じ地球に生きているのだから、違う価値観をインストールして生きてもいいわけだ。
日本でそれがやりづらいなら、
なんならその同じ地域に引っ越せば、そういう生き方に変えられる。
価値観って何だ。
常識って何だ。
そういう基準、地球にはないんじゃない?
宇宙にはないんじゃない?
他人に何を言われても、
自分が生きたいと思うように生きて良いんじゃない?
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